考えを整理するとき、人に見られるかもしれない場所にまとめると良いという話

人にどうしても読んでもらいたいものと、超個人的な日記の、さらに間に位置するものがある気がする。「半公開日記」のような。そういう個人ブログを見つけると、ちょっとうれしくなる。その人となりが滲み出ているからだ。ホントにただの日記だと読まないんだけど、独白みたいな日記はちょっと読む。— 神農亮 (@kanchan_r) October 5, 2018

心の琴線に触れたなにかを、言語化してまとめようとするときに、考えがなかなかまとまらない、という経験はないだろうか。

そんなときには、「ちょっとだけ人に見せる前提の場所で言語化する」ということをお勧めしたい。もしかしたら、こういうブログでもいいかもしれない。今回はそんなお話。

  • ひとつの記事として収斂させたくなる→考えをまとめようとする
  • 人に見られるかもしれない場所で整理すると、内面に耽溺しすぎない

ひとつの記事として収斂させたくなる→考えをまとめようとする

ひとつ、考えを整理するときに大事なことがあるように思う。それは、収斂(しゅうれん)させることを念頭において、考えをこねくり回すということだ。

自分ひとりで考えていると、堂々巡りになってしまうことがある。なぜかというと、そこには往々にして収斂フェーズが存在しないから。例えば、「なぜあの人は自分につらくあたってくるのか」という議題を置くとしよう。

これが、ひとりで悶々と書いていると、「ああなんじゃないか」「こうなんじゃないか」とどんどん発散させていく。人間の思考はとどまることをしらない。どんどん、いろいろな考えが湧き上がってくる。

で、一通り吐き出しまくったら、すっきりしてしまう。いろんなことを考えたので、どこかに履歴も残っていなければ、どういう風に考えたかもわからない。それでは、さきほどまでの時間、なにをしていたのかが全然わからない。でも、なんとなくすっきりする。

一見よろしい感じも見受けられるのだが、惜しいのは「ノウハウ化」されていないことだ。「こういうときは、こうしよう」「人間はこうだから、こうしたほうがいいのではないか」と形式知化してしまえば、次回以降「あの人」につらくあたられたとしても、屁でもない。

しかし、なんとなくすっきりしてしまうと、次回以降同じことが起きたときに、あれ?どうすればいいんだっけ?と迷ってしまう。この前一通りもやもやした覚えがあるのだけど、覚えていない。人は忘却の生き物だ。1時間前に会った人の顔のディテールさえも記憶に残っていないのが人である。

ブログなど、ひとつの生産物として置いておく場所に書き付けておけば、後から見返すことができる。それに、一度まるっと構造的に書いた文章は、自分でも驚くほど覚えている。

人に見られるかもしれない場所で整理すると、内面に耽溺しすぎない

もうひとつ、理由がある。それは、人に見られるかもしれない場所で考えをまとめておくと、内面に耽溺しすぎないからだ。

内面に耽溺するとはどういうことか?それは、考えるべきことに深くのめりこんでしまい、自分以外のことは見えなくなってしまうことだ。

厄介なことを考えるときほど、ほんの少し他人の視点を持ち込むほうが、うまくいく。例えば、「なぜあの人は自分につらくあたってくるのか?」という命題であれば、「あの人はどう考えているんだろうか」「人はどういうときに、他人につらくあたるのだろうか」と考えることも可能だ。むしろ、この方向性が結構本質的なのではないかと思う。

しかし、あんまり耽溺しすぎると、「自分が悪いんじゃないか」と一方的に沈んでしまうこともあるだろうし、逆に「あいつが悪い!」と極端に振れかねない。極端は、往々にして間違いだ。もっと自分の考えを俯瞰して見なければ、そのへんの石ころにつまづいてこけて、捻挫でもしてしまう。

最後に

人に見られるかもしれない、でも基本は誰も見ていない場所で、考えを整理するというのは、いいものだ。いいぐらいの形に考えがまとまる。そういう場所を、持っているとなにかと精神的にも楽だ。

このブログも、ぼくにとってはそのような場所になるのだろうか。

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profile 著者:神農亮(Ryo Kanno)( @kanchan_r )
2014年5月までジャカルタで現地採用→6月よりフィリピン・セブ島の語学学校サウスピークで海外就職サポートの仕事をしています。ご相談お気軽に!
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