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2017-07-30

なりたい自分がなければ、なりたくない自分を問いなさい

先日「TOUCH」というイベントのオープニングパーティに参加させていただいた。(先日のブログにも書いたところだ)

オープニングレセプションでは、お酒が振る舞われ、おいしいそうなカフェメシも10人は囲めるであろう大きなパーティーテーブルに配膳されていった。そこにいる人々は、プロジェクトメンバーである数名の方々の友人知人の方が大部分で、そのメインメンバーをハブとした交流会の機能も果たしていた。

そこで出会う方々の多くは初対面だったのだが、自己紹介が結構大変だった。そこに集うのはコンテンツ界隈の方々(映像作家、写真家等)ばかりで、フィリピンの語学学校の社員で、インドネシアとフィリピンで海外滞在し、最近久々に帰ってきた、という人は僕だけだった。

そこで「フィリピンの語学学校ではたらいています」と自己紹介すると、「あ!英語の先生ですかー!」と毎回大間違いされた。そこで興味深かったのは、これだ。自分自身先生だと間違われると、勿論否定した。しかしそれは単に事実とは違うというだけじゃなく、先生として覚えられたいわけじゃない、と感じていたことだった。

「語学学校の先生」と間違われることは、どうやら僕の本意ではなかったらしい。単純に、ちょっと嫌だったのだ。語学学校の先生というと、語学しかできなくてもおkに聞こえる。そんなことはないのだが、なんだかそこに軽んじられるかもしれないという可能性を見出してしまった。

「何をもって覚えられたくないのか?」は、「何をもって覚えられたいか」への回答に輪郭を与える

ドラッカーが、いつも自分に問い直す問いがあって、それは「何をもって憶えられたいか」なんです。ーはじめてのドラッカー

ドラッカーがなにかの著作で書いていた有名な言葉を引用してみる。だれしもが自分がありたい理想像や方向性を持っているはずで、それがわかれば一挙手一投足が、よりよい自分になるために動く。自己刷新を促すための言葉だ。

なにをやりたいか?という問いは、いつでも多くの転職活動者や、新卒の就活生の頭を悩ませる。そんなものわからないからだ。どうなりたいのか?も案外考えている人はいない。

だったら、「じぶんはどうなりたくないのか?」を一度自問自答してみればいいんじゃないだろうか。「じぶんは何を持って覚えられたくないのか?」「一体、それはなぜなのか?」と問うことは、けっこう簡単だ。

僕が「語学学校の先生」として覚えられたくなかったのは、別に語学を教えることが好きでも、得意でもないからだ(そもそもそれが生業だったことは一度たりともない)。ひとにあたらしい選択肢を見せることや、こういう考え方もあると提示し、一度考えてみてもらうことが好きなのだ。

いままで数年間海外就職をテーマにブログを書いてきた。昨年バンコクに行ったときも、知人に「神農くんはもう海外就職の人、だよね〜」と言われた。それくらいには情報発信をしてきたし、読んでいただけた。そこまで海外就職に熱量があったのは、海外就職というテーマが普通に生きる僕のような日本人の人生を抜本的に変える可能性があると考えたから。

いま現在フィリピン留学の仕事に携わり続けているのも、なんだかんだ、多くの日本人が今まで見えていなかった選択肢を見られるようにする手段だから。

これが、「なにがやりたいことなの?」と聞かれただけだと、上記のような答えはスラスラ出てこない。「語学学校の先生なんですよね?」と聞かれて、はじめて、「いやいや違うんですよ、そうじゃなくてこういう価値のある仕事をしているんですよー」と言いたくなる。

最後に

自分のアイデンティティを揺さぶるような質問は、とてもストレスがかかるのだけど、定期的にやってもいいかなと思った。「実はそれ、たりたくないんじゃないの?」とか、否定的な問いもいいよね。揺さぶられると、振り子みたいに、反動で想いに近い言葉を言いたくなる。そんなことを考えていました。

今日の一枚。「TOUCH」のオープニングセレクションでも、岡本太郎の作品を見に行くことを超お勧めされた。自分が激しく揺さぶられるらしい。それにしても、渋谷のここにこの作品を置いた人は本当に偉大だ。通勤路なのに、揺さぶられる笑

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