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2017-07-09

モノへのうれしさ・愛着と、「どうせなら良いものを残したい」という真剣さ

神農です。

あたらしく買ったマイカメラ「X100F」を首から提げて、半日東京を歩き倒してきました。

昨日書いた記事:FUJIFILM X100F買いました!結局カメラは、「毎日撮りたくなるか?」がすべてだった。

散々歩いて、さっきビックカメラ渋谷東口店の2階カメラコーナーで成果物の写真を印刷してきたのですが、言いようのないうれしさを感じたんです。

おまけに、印刷した写真を見返しつつ、休日はあらたな写真を撮影し、どんどん良い写真を撮れるようになろうという決意までしました。

今日は、この話をすこし掘ります。

「モノとしての価値」と、自分がつくったものへのどうしようもない愛着

今回、写真を印刷して、手にとってみて思いました。自分が創ったものが手元に形をなしてのこるって、多くの人がうれしいと思うことなんじゃないか、と。

デジタルな今の世では、オンライン上で書いたものや、iphoneで撮った写真はデジタルデータとしては残り続けます。しかし、自分の手で触れられる形で残している人って、ほとんどいないとおもうんですよね。

僕は生粋のネットユーザーというか、デジタル世代なので、それはほとんどあたりまえでした。ネットで検索したり、アップロードしない日が本当に1日もないくらい、どっぷりネットに使っている世代です。

しかし、いざこうして形として写真に触れてみると、どうしようもなくうれしいんですよね。なぜか。

ぼくはやっぱりですね、「モノとしての価値」を感じずにはいられません。デジタルな世の中ですが、最後まで、この「モノ感」のうれしさは残るんじゃないかな。

それにもうひとつ、目の前にある写真達は、まぎれもなく、今日自分が撮影したものです。しかも、それもそこそこ苦労したというか、時間がかかりました。カメラ使うってやっぱり人目は多少は気になりますし、うまく構図が決まらないときは、う〜んと悩みます。

そうして汗かいて創った写真が、手元に残るよろこび。たとえるなら、毎日手帳に日記を書いて、それを見返すときのサムシングもそうでしょう。

またたとえるなら、陶芸教室なんかも似ているかも。がんばって姿勢を正してお茶碗を作る。形は変になりますし、うまくできないのですが、なんとか形になって、それを持ち帰れる。

お茶碗の品質だけ見てとれば、高くて意匠のつくった作品の方が良いに決まっています。なのに、ついつい自分でつくったものを使ってしまうこの感じ。

写真のプリントには、この根源的なうれしさがあります。

どうせモノとして残るなら、良いモノを残したい、という真剣さ

もうひとつ、写真のプリントって、上書きできないんですね。

今回10枚超の写真をプリントしましたが、これはこのまま残ります。今から現像やり直したり、色変えたり、トリミングしたりできません。デジタル特有の利点である「後から修正」がきかないんです。

そのほうが、写真撮るのに真剣になれるな、と感じました。

今度の休日も写真を撮ることに費やす予定ですが、良いやつは印刷するんだし、めっちゃ真剣に写真撮ろうと思えます。これ、iphoneで写真撮っていたときじゃ自分の中に存在しなかった感覚なんです。

iphoneで写真撮って、ただInstagramにアップしているときは、「まあいくらでも撮れるし、いつでも撮れるし、適当でいいや」というところが、自分にはありました。正直、デジタル上のアウトプットはこういうのあるんじゃないですかね、みんな、多かれ少なかれ。

でも、形に残そうと思うと、一瞬一瞬、真剣になれるような気がしています。もちろん今回の撮影もそうでした。写真って、一瞬の判断でできあがりが決まります。その一瞬に真剣になれるんです。

これは、「印刷物に残るから頑張って撮るぞ」というシンプルな感覚なんでしょう。どうせ残すなら、良いものを少しでも撮りたい。

デジタルのタイムラインならどんどん自分の成果物は流れていきますが、モノは流れていかない。自分の手元に残ります。だったら、もっと真剣になろうよ、と。

最後に

ぼくは、大学生頃からデジタルにどっぷりで、本も全部Kindleで買うか、自炊業者に依頼してPDF化してipadで読むような人です。たぶん、そこらへんにいる日本人の方と比べるとよほどデジタルに浸かっています。

なのに、なんか最近、アナログへの回帰がすさまじい。というか、気付いてしまった感があります。「アナログだからこそのうれしさ」に。

特に写真は、アナログのうれしさがすごいですね。当面の休日は、撮影に費やすことになりそうです。

 

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