「ばかがばれてから」を読んで、「ばかだとばれたくなかったんだな」と気付いた話
糸井重里という人がいる。株式会社ほぼ日という会社の経営者であり、ほぼ日が運営する「ほぼ日刊イトイ新聞」で毎日エッセイを投稿する「ダーリン」でもある。僕はこの3年くらいその姿をTwitterで拝見しており、今のところ彼が19年間毎日更新されているらしい(!)「今日のダーリン」も書かさず拝読している。尊敬している、とも言い換えられるかもしれない。
今日の話は、そんな彼の一年間の原稿を集め、編み直した本「忘れてきた花束」に書いてあるエッセイについて。タイトルは、「ばかがばれてから」。すべてを引用するわけにもいかないので、一部分のみ引用する。
「こうして、毎日毎日、なにかを書いている。
対談も、ずいぶんたくさんやってきた。
あちこちでしゃべっていることもある。
取材を受けて、あれこれ語っていることもある。
これだけたくさん語っていると、どんなにりこうぶっても、ばかがばれてしまう。
(中略)
ただ、ずっと同じばかでいるよりは、
そこから、もっとナイスなばかになりたいとか、
ここらへんは、ばかのままじゃ迷惑がかかるなとか、
努力というようなものをはじめたり、勉強してみようかとかいう気になったりするわけだ。
そう、つまり、ばかがばれてから、こそが、
ぼく自身のつくってきた、ぼくというものなのである。」
なんというか、思わず「はぁ」とため息が漏れる。心臓あたりから流れる息と同時に、声にならない声がそのあたりから喉までせせり上がってくる気がした。「おれは、ばかがばれたくなかったんだな」と。
久々にブログというある程度のサイズが決まった形で文章を書いていると、自分がいかに日々考えていないかがわかってくる。上記で引用した糸井さんほど書いて話てを繰り返すことはさすがにないけど、毎日ブログを書いているだけでも、そう思う。書けば書けば、具体性が気になるし、考えれば考えるほど、足りない点に気付く。
気付いたのは、この3年間僕が当ブログを書かなかったのは、「もっと価値が明確なアイデアを出そう。それを思いついてから書こう」と思っていたということだ。それは言い換えれば、「ばかがばれたくないので、かしこくなってから書こう」という気持ちだ。しかし、「ばかがばれてから」でないと、扱える考えもなく、組み立てる材料もない。「ばかがばれてから」でないと、「勉強するぞ」「もうちょっと考えた方がいいな」ということはない。下手すると、この面で僕は3年間成長が鈍化していたといえるだろう。(とても残念だ)
ただ、救いなのは、逆のことがあること。
ブログでもなんでも、一度ある程度のサイズ感のある考えを世に出していると、後から見返して「この前書いた文章、この部分については深掘りがもっとできるよな」だったり、「この前こういう話したけど、あれには続きがある。考えよう」ということなんかもできる。
僕はこの記事を書いたことで、「…ということは、これから毎日くらいなんか書かなきゃな」という気持ちになっている。「ばかがばれてから」が、自分自身を作るから。その気持ちが薄まってくれば、この記事を自分で検索して、読み返せばいい。「考えが扱える形で目の前にある」ことは、「ばかがばれ」るということだし、同時に前に歩みを進められるということなのだ。