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2015-12-22

頻繁に海外行けば、視点が変わる。

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先日までタイ・バンコクに出張で行っており、そこで強く、強く感じたことがあった。それは、「住む場所が変われば、視点が変わる」ということだ。今流行のデュアルライフは、田舎と都会のデュアルという意味合いで使用されることが多いとは聴くけども、それは田舎に住むのと都会に住むのとでは、視点が変わるからだろう。

環境に規定されている僕ら

そう、視点は環境に依存するのだ。きっとセブに住んでいるときと、ジャカルタに住んでいるときでは圧倒的に視点が違う。哲学者の東浩之氏は著書「弱いつながり」の中でこう語っている。

ぼくたちは環境に規定されています。「かけがえのない個人」などというものは存在しません。ぼくたちが考えること、思いつくこと、欲望することは、たいてい環境から予測可能なことでしかない。あなたは、あなたの環境から予想されるパラメータの集合でしかない。 

 

僕はこの言説に、理屈というよりも腹に落ちた感じを受ける。人間は所詮環境から計算される予測値の中にしかいないのだ。いかに今の場所でだけクリエイティブなことをしようとしても、人と変わったことをしようとしても、所詮その予測値の中で収まってしまう。

大前研一氏は、自分を変えたいなら、住む場所と付き合う人と、時間の使い方を変えよと言う。高城剛氏は「アイデアと移動距離は、比例する」という。皆、気がつけば同じことを言っているんじゃないだろうか。

かくいう僕も、やはりひとつの場所に1年以上住み続けると、視点が固定化されると感じている。特に、「コレは駄目」「こうすべきだ」という言葉が出てきてしまうと、それ以上枠を出られなくなってしまう。その場所で「強いつながり」を持ってしまうがために、生じる制限である。ただ、普通そんなもんなので仕方が無いのではあるけど。

同じ場所に留まると、好奇心が減退する

みな色々な言い方をするけども、今回バンコクの街を歩いていて僕が思ったのは、「あれ、好奇心が減っているな」ということだった。それは、「大体分かっているつもり」が原因だ。はじめて海外に出たとき、はじめてジャカルタに行ったとき、こうではなかったはず。
ひとつの場所にずっと長くいると、「分かっているつもり」になる。これはとても怖い。「大体アジアのことは分かっているつもり」「大体海外で働くということについては分かっているつもり」「大体英語学習については分かっているつもり」。

人は「分かっているつもり」になると、それ以上の思考を止める。街を歩いても何か変わったことを探すことも止めるし、何かを言われても感ずることがなくなっていく。仕方が無い、そういうものなのだ。

そこで「分かったつもりをやめよう!」と自己を啓発してもいいのだけど、それは得策とはいえない。気の持ちようだけを扱おうとしても、それは気持ち悪いポジティブを生むだけだ。
だから、移動するのだ。身体的に位置情報を変えれば、そこで頭の中の枠が一旦なくなる。普段見ない光景を見れば、普段話さない人と話せば、普段歩かない街を歩けば、インプットの質が変わる。目の前の真っ白なA4用紙でうんうん唸るよりも、その方がよほど簡単なのだと、今回痛感した。

アウトプットの質を変えるには、インプットの質を変えるしかない

僕はハイパーメディアクリエイターでもなければ、ハイパーノマドでもない。普通の現地採用である。世界1周すらしたこともなければ、なんか凄い起業家なわけでも、当然ない。(言うまでもない)そんな僕のような人間が、アウトプットの質を変えようと思えば、インプットの質を変えるしかないのだ。

「GIGO」という造語がある。「Garbage in, Garbage out」という言葉だ。ゴミ情報からは、ゴミから生まれない。なかなか辛辣な言葉である。ただ、これほど納得感のある慣用表現はあるだろうか。

そう、場所を変えることは、インプットの質を圧倒的に変えることなのである。現にバンコクに行ったのは実質2日程度なのに、今とてもマインドフルだ。その2日間をダシにして、なんぼでも書ける、という気持ちでいる。
僕も日々仕事としてインターネット上で記事を書く人間として、アウトプットの質を変えなければと日々考えている。その方法はわかった。可能であれば、2ヶ月に一度海外へ赴くか、2連休取れるときくらいはセブ島近隣の島に脚を運ぶくらいはしようと思う。(ということで、クリスマスはフィリピン・ボホール島へ行ってきます)

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