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2013-12-15

僕にとっての「海外に出る必然」とはなんだったのか?


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photo credit: Louish Pixel via photopin cc

初対面の方とお会いする際、「なんで海外で働こうと思ったんですか?」という質問を毎回必ず受けます。
正直、もう2年前のことは忘れており、かつ、理屈でならなんとでも言えるという事実に直面して、なんで自分はほんとにそう思ったのかわかりませんでした。

そんな折に、知人がFBで「海外に出る必然」というテーマで投稿されているのを見かけ、先述の答えが出たのでここに書いておきます。

僕にとっての「海外に出る必然」とはなんだったんでしょうか?それは「外に出る」という原初的な衝動だったのです。

昔からずっと「外に出」たかった

ぼくにとって、昔から「外に出る」というのは重要なキーワードでした。それは小学校のときにまで遡ります。

ぼくの実家はすこし都心から離れたところにあります。小学校に通うときも友達の中では遠い方で、遊びに行こうものなら自転車ガシガシこいで20分くらいかかってました。そのときは他人と比べて遠方に居ることが嫌で、都心に住めたらいいなあという憧れがありました。

高校生のころも、元々大学受験なんてする予定はなかったものの、まだ見ぬ世界を見たいし勉強もしたいという欲求がどこからともなく激しく湧いてきて、大学受験し、入学していました。周りは大学受験などする人は完全なる少数派だったのですが、そのポジショニングも心地良かったのを覚えています。

大学生のころ所属していた音楽サークルでもそうでした。元々そのサークルでは内輪で仲良くみんなでやろうという方針だったのですが、それに激しく反発していました。ひたすら外部のライブに出たり、他大学の人にノウハウを聴いたりして外部で評価されることを目指していました。

新卒で就職活動するときも、上京してつてを辿りながら小さなベンチャー企業に就職しました。これもそう。とにかく地元を離れ、「外に出」たかった。

こうして振り返ってみると、僕の人生は「外に出る」ということが至上命題であり、「外に出る」ためにはどうすればいいのかを考えて実践する人生でした。言い換えれば、「人と違う事をする」ということ。要はただのひねくれ者だったということなんですが。

「外に出る」という観念

この「外に出る」というのは、ぼくにとってどうしようもなく強い衝動であり、主観的な内在としての観念であり、イデアであり、それは無条件なもののようです。別に誰に言われるわけでもないし、それをやりたいというレベルとも違います。もうほんとに、「外に出」ないと腹の虫が収まらない。「外に出」ないと死ぬ。

赤ん坊はこの世に生を受けたとき、泣きます。あれはものすごいエネルギーを感じますが、それと同じなんですね。彼らは誰かに泣けと言われているわけでもありません。それは無条件です。生きたいから泣くんですね。なんで生まれるの?となんで死ぬの?に条件などないように、彼らは泣かなければ生きれないから泣くんですよね。僕にとっての「外に出る」も、それと同じ感じです。

だから僕は2年前、「海外に出る必然」を感じたんだと思います。「外に出」なきゃ。海外に行かなきゃ。アジアに行かなきゃ。インドネシアに行かなきゃ。
理屈ではなんとでも言えます。成長しているから、なにかしらの縁やきっかけがあったから、海外に憧れていたから。

でもそれはきっと本当の理由じゃありません。人間のほんとのほんとのところは無条件で絶対的なところにあります。ぼくにとって、それは「外に出る」という抽象的な観念だった、だから海外に出た、ただそれだけです。


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