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2013-06-02

自分の言葉で自分の人生を語れるか

情報の洪水、それが現代だ。色んな記事を目にし、色んな人の色んな意見を耳にし、色んな人の醜態を目にする機会がある。あるトピックに関して色んな人の意見を聞きたければググればいい。初めのページから数ページざっと見てみれば良い。たくさんの意見や批評があるだろう。とっても簡単である

かくいう僕も何かを買う時大いにネットのレビューを大事にする。最近も仕事の出先でiPad miniを使ってメール返信するとき用にワイヤレスキーボードを探していたのだが、お気に入りブロガーさんがAppleの純正のものを使用しており、それが決め手となり購入に至った。もちろん実物もとても使い易く、Apple信者独特の自尊心もくすぐられ良い気分この上ない。

現代において、このように他人の声を聞く機会はとても多い。それはとても恵まれたことだ。何かに困ったとき、解決したい問題があるとき、そうでなくても暇つぶしをしたいときでさえ、他人の声というのは役に立つ。興味深い。だからついつい僕もネットサーフィンなるものをしてしまう。

ただ、あまりに他人の声という情報にまみれすぎると、それが自分の声であるかのように錯覚に陥ることがある。政治家がなにか問題を起こしたとき色々なバッシングが起きるが、その中の声を見つけて、うんうん俺もそう思うな、と思う。どこかのブログ記事炎上しており、誰かがこいつおかしいんじゃね?と言えば、そうだよな、本当におかしいと思う、と言う。これは確かに賛同しているので自分の意見を言っているかのように見えるが、実は1mmも自分の意見を言っていない。ただ、うんうんと言っただけでそれ以上ではないのだ。そしてそれはあなたの人生に如何ほども影響しない。時間の無駄だと思う。

自分の意見を言うことは難しい。意見を言うにはそれなりの理由や根拠が必要だからだ。それが事実に対して正しいかを検討するだけでも骨が折れる。手間のかかる作業である。だがその作業をやって初めて自分の意見が言える。言った結果他人と同じでもそれは良い。その中身が大事なのだから。その意味で真に同じ意見と言うのはそうそうないのかもしれない。

他人の声ばかり聞いて、それを眺めてばかりいると自分がそれを言った気になる。思った気になる。それは決して自分の人生を生きていない。他人の人生を生きているのだ。それでも費やされる時間は同じである。流れる時間は同じである。違うのは、その声の中身だけだ。

一見声だけだと同じに見えるだろう。語った結果が同じだからだ。だがそれは他人が聞けばすぐそれが他人のものだとわかってしまう。なぜなら、なんでそう思うの?と1段階掘り下げるだけで、その根拠と結果が噛み合ないからだ。全く説得力がないからだ。ああ、この人は自分の言葉で語っていないのだな、自分の頭で考えていないのだな、で終わる。それは双方にとって時間の無駄かもしれない。自分の言葉で語られない想いなど価値がない。語られた相手は冷めてしまうに違いない。

自分の言葉で語られた言葉には力がある。なぜなら当人が自分の頭で考えて、自分の経験からひねりだした言葉だからだ。一筋縄ではいかない人生の経験からひねりだした言葉は決して同じものにはならない。いや、もし使う言葉が同じでも中身が違うはずだ。そこが人間のおもしろいところであり、そこの部分を語られると思わずぐいっと身を乗り出してしまうものだ。

海外就職然り、就職活動然りだが、自分の言葉で自分を語って欲しいと願う。他人ではなく、紛れもない「あなた」はどう思っているのか?それはなぜなのか?「あなた」にどんなことがあって、そのとき何を思ったからなのか?他人の声に惑わされ他人の言葉で語っている限りは誰も魅かれないだろう。自分の人生を自分の言葉で語れるようになったとき。初めて始まるのだと思う。

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